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ハバロフスク案内


日本とハバロフスクとの関係


1956年(昭和31年)に日ソ国交回復が実現すると、1961年(昭和36年)に横浜からナホトカへの定期航路が開設されました。ナホトカ港でソビエトに入国した外国人旅行者は連絡列車でハバロフスクに向かうように指定されました。モスクワや、ヨーロッパ方面など、ハバロフスク以遠を目指す場合でも、ここからは別の列車や航空機に乗り換える必要がありました。そのため、ハバロフスクは極東経由でソ連を訪れる旅行者が必ず訪れる町となりました。また、1962年(昭和37年)には新潟市長がハバロフスクを訪問し、1965年(昭和40年)に両市の姉妹都市提携が調印されました。同年に出羽海親方を団長とした大相撲のソビエト公演がモスクワに次いで行われました。2010年(平成22年)に姉妹都市提携45周年を祝いました。1969年(昭和44年)4月、兵庫県・ハバロフスク州姉妹・友好提携が調印されました。

1973年(昭和48年)には新潟との間の航空路がアエロフロートにより開設され(後に日本航空も運航)、その後長く日本からシベリアへ向かう唯一の直行路線となっていました。同時に、新潟空港にとっても初の国際線で、北東アジアの各都市へ路線網を拡大するきっかけとなりました。

1992年(平成4年)、ハバロフスク・武蔵野市は青少年相互交流協定を締結した結果、2年ごとに青少年の派遣・受け入れを両市間の事業として交互に行っています。

ソビエト崩壊後もハバロフスクと日本との関係は深く、1993年(平成5年)には日本の総領事館、1994年(平成6年)には日本センターが設置されています。また、1996年(平成8年)にはハバロフスク地方と友好提携関係を結んだ青森県の青森空港からの定期航空路が就航し、約12年間にわたって各種ツアーをはじめ、経済人の行き来とともに夏休みには少年少女の交流も活発化して行きました。また2003年7月7 日に『みちのく銀行』ハバロフスク支店がオープンしました。(しかし、1999年(平成11年)から日本の銀行として初めてロシアに積極的に進出した青森の『みちのく銀行』は、2007年(平成19年)末で閉鎖され、ハバロフスク支店も閉店し、モスクワの現地法人はみずほコーポレート銀行に売却されました。)

2003年(平成15年)1月12日、当時の日本国総理大臣小泉純一郎氏がロシア連邦訪問の際、ハバロフスクも訪問しました。同年8月、ハバロフスクで日本外務省の主催『ロシアにおける日本文化フェスティバル』が開催されました。それ以降、ハバロフスクは日本外務省による日本映画際、姉妹都市間の展覧会や海外巡回展、和太鼓集団や民謡合唱団や日本のミュージシャンの公演、その他の文化事業の開催地となっています。

日本各地からチャーター直行便および成田国際空港から定期便を利用する日本人観光客やビジネスマンなど数千人が毎年ハバロフスクを訪れます。現在は成田/ハバロフスク線の運航となっているのは、S7航空(旧名:シベリア航空)です。また新潟空港と極東ロシアのウラジオストク、ハバロフスク両都市を結ぶ航空路線の運航再開を検討しています。

 

日本人居留民について

明治時代(19世紀60年代末期ごろ)から大正時代にかけてウラジオストクやハバロフスクをはじめ極東ロシア・シベリア内地の各所には多くの日本人居留民が渡航しました。彼らは主にウラジオストク(別名:浦塩、浦汐または浦潮)に定住し、明治17年(1884年)、ハバロフスク(哈府)の居留日本人は約20人にすぎませんでした。大正6年(1917年)のロシア革命前、ウラジオストク(浦潮)、ハバロフスク(哈府)、ニコラエフスク(尼港)、ブラゴヴェシチェンスク(武市)、ニコリスク(尼市、現在ウスリースク)、チタ、イルクーツクなど極東ロシア・東シベリアの各都市には日本人居留民が数千人定住していました。明治9年(1876年)、ウラジオストクに日本の貿易事務官、また明治14年(1881年)に長崎との間に定期便航路が開設されて以来、より多くの日本人が帝政ロシアに渡り、ウラジオストクの在留日本人数がますます増えていきました。ウラジオストクには当時、居留民が多数住んでいた日本人街、総領事館、日本人小学校などもあり、更に日本人居留民会と共に「浦潮日報」も創設されました。明治19年(1886年)、西本願寺が布教活動を開始し、浦潮本願寺布教所が置かれました。