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ハバロフスク案内


ハバロフスク紹介


ハバロフスク紹介

 

ハバロフスク(英語 Khabarovsk、ロシア語 Хабаровск、中国語 伯力Boliまたは哈巴夫斯克Habaluofusike)は極東ロシア最大の人口約58,5万人の中心都市で、極東連邦管区の本部が置かれています。

 

地理

ハバロフスクはロシアの最東端地域にあり、ロシアで最も長い川アムール川(中国名・黒竜江)の右岸に位置し、ウスリー川との合流点のすぐそばに位置します。北緯48度20分~48度40分(ドイツのミュンヘンやオーストリアのウィーンとほぼ同じ)、東経135度00分~135度15分(兵庫県明石市や南オーストラリア州 エーア半島とほぼ同じ)に位置し、面積は約400平方キロ(東京都の面積の約5分の1)です。モスクワからはかなり遠く、直線距離では6075キロ、シベリア横断鉄道経由で8533キロの距離があります。またアムール川の対岸にある中国領の黒龍江省からは約30キロの距離にあります。

ハバロフスクの中心街は平行して走る3本の丘の上に広がり、昔小川が流れていた2本の谷間は並木通りとして整備され、

市民の憩いの場所となっています。町並みは緑に恵まれており、数々の公園には落ち着いた雰囲気が漂っています。白い大理石や煉瓦造りの近代的な建物が多く、古い木造家屋も所々に残っています。夏の陽射しをやわらげるポプラの一種ドロノキや楡や白樺の街路樹はとても美しいです。ハバロフスク郊外へ足を伸ばすと、町の南は風光明媚なヘフツィール山脈に囲まれ、熊、鹿、アムール虎なども生息する動物の自然保護区になっています。ここには、アムール川とその支流ウスリー川の合流点にある、ロシアと中国の共同管理に置かれている大ウスリー島/ボリショイ・ウスリースキー島(中国名:黒瞎子島 heixiazi dao へいしゃず島/こくかつしとう)があります。ここは中国東北部の黒竜江省との国境隣接地帯です。                                

 

  

 

気候

ハバロフスク市は寒暖の差の激しい大陸性モンスーン気候帯にあり、平均気温は冬マイナス22度で、夏は逆に、平均気温は22度です。冬は一年で最も長く、11月初め頃から3月末までの150日間で、冬の1月は気温がマイナス30度まで下がることもあります。最低気温はマイナス43度と記録されています。大体11月から4月中旬ごろまで雪に覆われています。夏は短く、6月初め頃から8月末までです。しかし、夏の7-8月には連日30度を超えることが珍しくなく、最高気温は38度まで上がることもあります。降水量は8月が最も多く125ミリ、最低は2月で13ミリです。

 

歴史

ハバロフスクは歴史は古くないものの、シベリア探検・開拓と帝政ロシアの崩壊、第一次世界大戦とロシア革命、スターリンの大粛清と第二次世界大戦、ゴルバチョフのペレストロイカなどロシア近代史の狂乱怒濤の時代に輝かしい一ページを残した街です。2012年5月31日にハバロフスクの開基154周年を祝いました。1858年に当時の清国と帝政ロシアの間で愛琿(アイグン)条約、また1860年に北京条約が調印され、これらの条約によってアムール川とウスリー川に沿って国境線が公式に定められました。1858年に、国境線の警備のために、アムール川沿岸の各所に監視所がいくつか建設され、その一つは、1649年にこの地に足を踏み入れた開拓者エロフェイ・ハバロフにちなんでハバロフカと名付けられました。(駅前の広場にはハバロフの銅像がたてられ、街に視線を向けています。)当時の帝政ロシアでは1861年に農奴制が廃止され、農民のシベリア移住が急激に増加しました。1891年に始まったシベリア横断鉄道の建設はこれを促進しました。ハバロフカは1880年に市制が敷かれ、1893年に現在のハバロフスクという名前になりました。ハバロフスクは日露関係の発展の成り行きを見た生き証人です。日露戦争が終わった後、帝政ロシアと日本との関係が深くなり、明治の終わり頃から極東ロシア・シベリアへ日本人が居留し、居留民の建てた建物がまだ残っています。

1916年にはアムール川の鉄橋建設の終了と共にシベリア横断鉄道が全通し、ハバロフスクはロシアの極東地域発展の重要な拠点となりました。(それまでは中国満州地方を横断する東清鉄道(中東鉄道)経由の開通。)1917年にロシア革命が起こると、極東地域はロシア革命直後の1918年から22年にかけて白衛軍と呼ばれる反革命軍が圧しました。1918年にはシベリア出兵によりアメリカや日本をはじめとする連合国軍がウラジオストックとハバロフスクまで進出し、1918 -1920年には日本軍がハバロフスクを占領しました。その後、1920年に緩衝国として極東共和国が成立し、1922年に日本軍がシベリア出兵を終了すると、ハバロフスクにソビエト政権が確立しました。

そして、忘れてはならないのは、第二次世界大戦後は日本関東軍抑留者収容所が設けられ、ハバロフスクで土木工事やビル建設などの強制労働に従事させられていたということです。その中の多くがこの地で没しました。現在でも日本人墓地が維持され、近親者などによる墓参が行われています。また、一部の日本人向け観光コースにもここへの墓参が含まれています。

(街の郊外にはシベリアの収容所で亡くなられた抑留者を偲ぶ慰霊公苑があります。)

 

その他

ソビエト時代には、中央政府はハバロフスクを極東開発の拠点として重視し、機械製造工業や金属加工業や木材業、建設業,食品工業など様々な産業部門の発展を推進しました。また、極東ロシアでは外国人開放都市として指定されました。ハバロフスク

は、シベリア鉄道の重要な拠点駅であり、ロシア国内をはじめアジア太平洋地域の主要な諸都市と航空路で結ばれる極東ロシアの交通の要衝です。極東ロシアの東の門戸と言われるハバロフスクはソウル、ハルビン、北京のほか、旧ソ連とロシアの約30都市と空路で結ばれています。特に、モスクワ、サンクト・ペテルブルグ、タシケント、キエフ、バクー、ウラジオストック、イルクーツク、クラスノヤルスク、ヤクーツク、ユジノサハリンスク等との国内線が充実しています。日本とは東京(成田)との間に週4便(月、火、木、金)の国際線の定期便も運行しています。

ゴルバチョフのペレストロイカによりウラジオストクなどが開放都市となるものの、ハバロフスクは極東ロシアにおいて、行政、経済、文化の中心地としての地位を失っていません。ハバロフスクには、博物館、コンサートホール、劇場などの文化施設、また工科大学、鉄道運輸大学、医科大学、教育大学、ロシア正教の神学大学などの高等教育機関やロシア科学アカデミーの支部、学術研究所が数多くあります。                                                             プーチン大統領は2000年5月13日に、ロシア全土を7つに分けた連邦管区制を設置しました。ハバロフスクは、ロシア極東連邦管区の首府となりました。ハバロフスク市は、2008年4月にモスクワで開かれたCIS(ソ連解体後、ロシア連邦をはじめ11の共和国で構成される独立国家共同体)国際フォーラム「メガロポリス21世紀」では、ロシア連邦の30都市の中、CISベストシティーランキングで受賞都市に選ばれました。本フォーラムで、ハバロフスク市は、保健医療福祉改革の達成度、投資政策と住宅政策の社会的方向性、国際交流の開発、都市の快適性と緑化という4つのカテゴリー(指標)で『CISベストシティー賞』のナンバーワンにランクされました。また同市は、2011年11月に、毎年行われる全ロシアコンクール「最もよく整備された2010年度の都市」では4回目の(前回2004年、2006年、2008年に)優勝を飾りました。

現在、ハバロフスクは極東ロシアやハバロフスク州の中心都市として目覚しい発展を遂げつつあります。

 

今の日本とハバロフスクとの関係

1956年に日ソ国交回復が実現すると、1961年に横浜からナホトカへの定期航路が開設されました。ナホトカ港でソビエトに入国した外国人旅行者は連絡列車でハバロフスクに向かうように指定されました。モスクワや、ヨーロッパ方面など、ハバロフスク以遠を目指す場合でも、ここからは別の列車や航空機に乗り換える必要がありました。そのため、ハバロフスクは極東経由でソ連を訪れる旅行者が必ず訪れる町となりました。また、1962年には新潟市長がハバロフスクを訪問し、1965年に両市の姉妹都市提携が調印されました。同年に出羽海親方を団長とした大相撲のソビエト公演がモスクワに次いで行われました。2010年に姉妹都市提携45周年を祝いました。1969年4月、兵庫県・ハバロフスク州姉妹・友好提携が調印されました。

1973年には新潟との間の航空路がアエロフロートにより開設され(後に日本航空も運行)、その後長く日本からシベリアへ向かう唯一の直行路線となっていました。同時に、新潟空港にとっても初の国際線で、北東アジアの各都市へ路線網を拡大するきっかけとなりました。

ソビエト崩壊後もハバロフスクと日本との関係は深く、1993年には日本の総領事館、1994年には日本センターが設置されています。また、1996年にはハバロフスク地方と友好提携関係を結んだ青森県の青森空港からの定期航空路が就航し、約12年間にわたって各種ツアーをはじめ、経済人の行き来とともに夏休みには少年少女の交流も活発化して行きました。また2003年7月7 日に『みちのく銀行』ハバロフスク支店がオープンしました。しかし、1999年、日本の銀行として初めてロシアに積極的に進出した青森の『みちのく銀行』は、2007年末で閉鎖され、ハバロフスク支店も閉店し、モスクワの現地法人はみずほコーポレート銀行に売却されました。

現在は夏季の成田/ハバロフスク線の運航となっているのは、S7(シベリア)航空並びにアエロフロート航空のグループ子会社ウラジオストク航空です。

 

日本人居留民について

 

19世紀60年代の終わりごろ、極東ロシア・シベリア内陸には最初の日本人居留民がやってきました。彼らは主にウラジオストクに定住し、明治8年(1875年)ハバロフスクの居留日本人は約50人でした。しかし、その後大正6年(1917年)のロシア革命前、明治時代から昭和初めまで、ウラジオストク(浦潮)、ハバロフスク(哈府)、ニコラエフスク(尼港)、ブラゴヴェシチェンスク(武市)、ニコリスク(現在ウスリースク)、チタ、イルクーツクなど極東ロシア・東シベリアの各都市には日本人居留民が数千人定住していました。明治9年(1876年)、ウラジオストックに日本の貿易事務官、また明治14年(1881年)に長崎との間に定期便航路が開設されて以来、より多くの日本人が帝政ロシアに渡り、ウラジオストクの在留日本人数がますます増えていきました。ウラジオストクには当時、居留民が多数住んでいた日本人街、総領事館、日本人小学校などもあり、更に日本人居留民会と共に「浦潮日報」も創設されました。明治19年(1886年)、西本願寺が布教活動を開始し、浦潮本願寺布教所が置かれました。

明治20年には、ウラジオストクの在留日本人は4,000人以上で、200余人の日本娼妓がいました。                                      

明治20年代(1891年より)、帝政ロシア鉄道庁が、ウスリー鉄道のウラジオストクとハバロフスク間の鉄道建設を行った際に、日本の海外渡航株式会社が、鉄道工事に従事する日本人移民労働者を募集し現地へ送りました。

第一世界大戦の始まる頃にはロシア極東に居住する日本人の数は 5000 人近くに上りました。中でも日本人はサービス分野の不足部分を埋めました。温厚、甲斐甲斐しさ、仕事熱心、几帳面さといった国民的特徴から日本人は乳母、洗濯女、「ゲイシャ 唐行きさん」、医師(いし)、写真師の上位を占めていました。

大正6年(1917年)10月にロシア革命が始まった後、大正7年(1918年)8月に居留民保護を口実に日本、イギリス、米国がウラジオストックに軍艦を派遣し、日本陸軍第12師団が上陸し、日本政府が公式にシベリア出兵を宣言しました。その後日本軍は極東ロシア各地で7万人以上の軍隊を展開し、激しい戦闘を繰り広げました。大正7年の夏に、シベリア出兵直前、極東ロシア・シベリアの在留日本人の人口はおおよそ8000人に及び、一番多かったのはウラジオストクでした。ウラジオストクにはおおよそ3500人、ハバロフスクには677人(大正8年のデータ)の居留民が住んでいました。シベリアの在留日本人は主に商業や運輸・サービス業に従事していましたが、中には一時的な出稼ぎや無届の人もあり、一部は娼婦でした。

                              

 

ハバロフスク州

 

 

 

ハバロフスク市はハバロフスク州の首府であり、行政、経済の中心地でもあります。ハバロフスク州はロシア連邦の一番東方に位置しており、オホーツク海と日本海に面しています。南北は約1800キロ、東西は約500キロ、海岸線は約2500キロ、総面積はかなり広く、約78、8万平方キロ(日本の総面積の約2.2倍、新潟県の約63倍)です。地球上の大河の一つであるアムール川は、ハバロフスク州を流れています。ハバロフスク州は、17郡と7の都市で構成されています。人口は約143万人に及んでおり、ロシア全土の1.1%です。都市部の人口は州全体の90.2%を占めています。ハバロフスク州の都市では、ハバロフスク市に次いでコムソモリスク・ナ・アムーレ市(人口約30万人)が2番目で、アムールスク市(約5.8万人)は3番目です。

(ハバロフスク州はハバロフスク地方とも言いますが、ロシア語で Хабаровский край です。ハバロフスク州はいくつかの郡にわかれ、ハバロフスク市周辺の土地はハバロフスク郡を構成しています。
ロシア全土は行政的にフェデラーリヌィ・オークルグ(федеральный округ 連邦管区)、オーブラスチ(область州)またはクライ(край 地方)、その次にライオーン(район 郡/地区)に分かれています。いくつかの郡は州を構成しています。Областьは比較的に面積の大きくないものですが、край地方は面積が大きく、他の州も入る行政的単位です。
ハバロフスク地方はソビエト時代には、ユダヤ自治州も含めて、ハバロフスク地方と呼ぶのが、通常でした。しかし、ソ連解体後、ユダヤ自治州が独立しましたが、ただ Хабаровский край ハバロフスク地方という名前は昔のまま残っています。ハバロフスク地方とハバロフスク州の両方とも正しいです。
 

人口

ハバロフスク州には旧ソ連を構成していた約140の民族が住んでいます。
人口の86%はロシア人とその混血です。また昔からアムール川流域とハバロフスク州北部地域にはツングース系の北方少数民族(人口の1.4%)が住んでいます。
 

人口の構成は下記の通りです。注意:ここに記載されている数字は2007年のものです。

天然資源と産業

ハバロフスク州では森林が約68%、山岳地帯が70%以上を占めています。天然資源に恵まれたハバロフスク州では鉄鉱石、石炭、非鉄金属、貴金属、マンガン、石墨、泥炭、水銀、燐鉱、ダイヤモンド原石、そしてまた木材、毛皮、魚類、漢方薬の原料なども採れます。ハバロフスク州には、ロシアでも有数の錫の産地ソールネチヌィという産地があり、錫の採掘・加工は主としてコムソモリスク・ナ・アムーレ市で行われています。

ハバロフスク州では様々な産業部門が飛躍的に発達しています。主要な産業は、金属加工や機械(ディーゼル、航空機、船舶、動力機械、金属切削機械、ケーブル製品の製造)、林業、木材加工業、パルプ製紙業、非鉄金属、燃料工業、漁業などです。またハバロフスクとコムソモリスク・ナ・アムーレ市に精製所が2カ所あり、年間に1,000万トンの原油を精製しています。そしてまた製薬工場、製粉工場、植物油製造工場、アルコール工場、肉加工工場、ビール醸造工場などがあります。主要港は、日本海に面するヴァニノとソビエツカヤ・ガヴァニです。ハバロフスク州は、ロシアの国内総生産(GDP)の約1.5%を占めています。