メール サイトマップ



天気情報



GISMETEO: Погода по г.Хабаровск

GISMETEO: Погода по г.Москва

GISMETEO: Погода по г.Токио



対ルーブルの外貨両替レート


ニュース


13.07.2016 ハバロフスクにおける100年前の出来事、日本人経営の雑貨商店を開業


 

 

101年前の1915年(大正4年)7月、ハバロフスク中心部のポポフスカヤ街39番地で香川県小豆郡草壁村出身の野村健次氏が雑貨商店を開業しました。

当時、ポポフスカヤ街(現カリーニン通り)には日本人経営の料理屋、床屋、宝石・時計専門店、会社の事務所など約15件の居留民関係の各種機関及び日本人経営の商店が集中しました。

1883年(明治16年)生まれの野村健次氏は、1910年(明治43年)ごろより中国領の松花江と牡丹江との合流点にある依蘭県の町三姓に渡航し、始めは富克錦(今の富錦)方面において雑穀類輸出業に従事しました。ついで極東ロシアの町ハバロフスクに移転し、貿易業、製材業を開業しました。シベリア出兵に際して1918年(大正7年後半)より陸軍御用達商を営んでいました。事務所は哈府ゴーゴリスカヤ街37番地(今のレーニン広場の西側、ゴーゴリ通り)にありました。彼はハバロフスク在留日本人の中で日本人商工会副会頭また大実業家として知られていました。

しかし、1920年(大正9年)秋になると、国内戦のためハバロフスク付近の状態が険悪になりました。

『大正9月19日突如哈府我駐屯軍撤兵ノ宣言軍司令官ニヨリ発表セラレ次デ26日帝国政府ノ命ニヨリ再ビ引揚ノ止ムナキニに至レリ。』とある。

10月にハバロフスク駐屯の日本派遣軍撤退に際して、日本人居留民の多くは帰国を余儀なくされることになりました。その結果、彼らは多大な損害を被りました。引揚げの際、野村健次氏の場合、被害当時の損害総額は56,350.00円になりました。(家族又は使用人数は14人に及び、そのうち家族2人、ロシア人1人、中国人2人でした。)

野村健次氏については、次のように記されています。 

『大正4年7月雑穀類並びに特産物輸出、朝鮮産精米及ビ食塩、醤油露西亜雑貨ノ輸入業ヲ開店爾来数回ノ政変ニヨリ生命財産ノ危険ニ迫まリシ事度々アリ加ヘ露貸ノ暴落及ビ過激派ノ跋扈ノタメ時々交通ノ社絶ニヨル生ズル打撃ニモ屈セズ本業ノ旁ヲ製材工場ヲ経営シ一方、森林ノ伐採、船舶ノ航行、鉱山、漁業、其他有利事業ヲ研究シ又時械ニ適スル商業ヲ営ミツツアリシガ、大正7年6月総合軍出兵ニ際シ危険状態ニ当タリタルニヨリ一時哈爾浜(ハルビン)ニ避難シタルモ日本軍ノ哈府ニ駐屯シ一般秩序回復シタルニヨリ再帰シテ貿易並ビニ製材業陸軍御用達ヲ営ム。 大正9年3月日本軍黒龍洲撤退ニヨリ二度ビ状態険悪トナリ、一般居留民ト共ニ避難スルニ決シ露支人トノ取引ニ関スル契約ノ放棄、商品ノ投売或イハ放棄シ夛大ノ損害ヲ蒙ルニ至リタリ、然ルニ第14師団経理部トノ取引関係ノ為メ店員5名ト共ニ残留スル事トナリ。

而シテ大正9年4月5日哈府市街戦当時ハ店員4名ト共ニ居宅ニアリ過軍兵士ノ侵撃ニ遭ヒ身ヲ以て逃れ師団長官舎ニ避難シ生命ハ無事ノナリシモ財産ノ内衣類其他営業上必要ナル書類等ハ議兵士等ノタメニ全部掠奪サレタリ。其後停戦条約成立シ愈々日本軍ノ撤退セザル事ニ決シタルニヨリ三度開業ス。大正9年10月政府ノ命令ニヨリ哈府(ハバロフスク)ヲ引揚ゲ現居住シタリ、数回ノ引揚ニヨリ蒙リタル有形無形ノ甚大ナ損害ノタメ現下営業ニ非常ノ困難ヲ来シツツアリ幸セニ此ノ調書ニ御賛協賛、御同情ヲ給ラン事ヲ希フ。

哈府在留中(在留期間約5ヶ年)、哈府日本人商工会副会頭、哈府日本人居留民会評議員等ノ職ニ就ク。・・・・』

Link 1

 

出典:国立公文書館アジア歴史資料センター REF: 5-1084、0251~0273、Page 60-82

 

Link 2

 

出典:国立公文書館アジア歴史資料センター REF:  5-1211、0098~0141、Page 11-52