メール サイトマップ



天気情報



GISMETEO: Погода по г.Хабаровск

GISMETEO: Погода по г.Москва

GISMETEO: Погода по г.Токио



対ルーブルの外貨両替レート


ニュース


13.10.2016 96年前の歴史的事実、ハバロフスク在留民の引揚げ


 

1920年(大正9年、今から96年前)10月、シベリア駐屯の日本軍撤退に際して、ハバロフスクに在留していた日本人居留民達はほとんど全員引揚となりました。

 

明治時代から大正時代にかけてウラジオストク(別名:浦汐または浦潮)やハバロフスク(哈府)をはじめ極東ロシア・シベリア内地の各所には多くの日本人居留民が渡航しました。第一次世界大戦前後より(すなわちロシア革命直前の1917年/大正6年までに)ハバロフスク中心部には日本人街が形成されておりました。日本人居留民による実業や活躍はその頃に最盛期を迎えます。しかし、1917年/大正6年にロシア革命が勃発し、それに続く国内戦争と連合軍によるシベリア出兵が始まりました。その後1920年(大正9年)9-10月、情勢が厳しく変化したため、日本政府は同年9月20日、ハバロフスク駐屯の軍隊を撤兵することを宣言し、またハバロフスク駐在の杉野領事を経て在ハバロフスク帝国領事館の職員および同地在留民引揚の命令を発しました。1920年(大正9年)10月7日及び12日の2回で浦塩(現ウラジオストク市)もしくはニコリスク(現ウスリースク市)へ居留民が殆んど全部引揚げとなり、ようやく10月21日に最終部隊がハバロフスク駅から出発し当地駐屯の派遣軍の撤兵は完了しました。大規模な引揚げの期間中、日本軍の撤退と共におよそ500人の日本人居留民がハバロフスク(哈府)をやむなく離れることになりました。彼らは、築き上げた全ての資産を失い、極東ロシアと永遠に別れを告げることとなりました。これはロシア革命時のハバロフスクにおける第3回目の奥地在住民の最終的引揚げでした。その後、2-3年間にわたりハバロフスク市内には日本特務機関の職員及び2-3人の日本人商人のみが残ることになりました。

 

当時、ハバロフスクから引揚げた一人の居留民・兵庫県出身の正木末八郎(28歳)は次のように記しています。『大正九年九月拾九日、突如哈府我駐屯軍撤兵の宣言、軍司令官ニ依リ発表セラレ次デ二十六日ハバロフスク市帝国領事館告示第十一号ヲ以テ左ノ告示ヲ与へラレタリ 「今般外務大臣ヨリ当方而本邦居留民中自己ノ責任ニ於テ強イテ残留ヲ希望スル者ヲ除ク外、絶テ引揚準備ヲ整へシメ日本軍撤兵前ニ浦塩斯徳ニ引揚ゲル措置アルベシトノ電報ニ接シタリ」。一面邦人ニ対スル露国人ノ感情ハ日ニ悪シク、邦人ヲ見ルニ敗者ノ如クセリ。哈府駐在ノ帝国領事館及日本軍憲ノ援助ニ依リ大正九年拾月七日及十二日ノ両回ニ亘リ我ガ居留民ハ殆ド全部引揚ゲタリ。。。』

 

 

Link#1

 

Reel # 5-1115, Page 0057-0059 (Page 51-53)

 

 

在浦塩日本帝国総領事館によると、、当時、ハバロフスク市とその附近から引揚げの邦人及び朝鮮系日本人の総数は下記の通りです。在留日本人(邦人)はハバロフスク市から507名(浦塩へ153名、ニコリスクへ354名)、ウャゼムスカヤ駅(現ヴャゼムスク市)から36名(浦塩へ22名、ニコリスクへ14名)、ビキン市から51名(浦塩へ41名、ニコリスクへ10名)、イマン市(現ダリネレチェンスク市)から133名(浦塩へ60名、ニコリスクへ73名)の合計727名(浦塩へ276名、ニコリスクへ451名)が引揚げとなりました。更に朝鮮系の日本人(1910年の日韓併合により日本国籍を付与された旧大韓帝国の臣民)はハバロフスク市から1468名(浦塩へ856名、ニコリスクへ612名)、ウャゼムスカヤ駅から71名(全員ニコリスク行き)、ヴェリノ駅から56名(全員ニコリスク行き)の合計1595名(浦塩へ856名、ニコリスクへ739名)が引揚げとなりました。

 

 

Link# 

 

Reel # 1-1313, Page 0098 (Page 34)

 

 

ご参考までに申し上げますと、大正時代、ハバロフスクには600~850人ぐらいの日本人居留民が在留していました。日本人居留民(在留者)はそのころ、ハバロフスクのことを日本語別名で哈府(ハフ)と呼んでいました。彼等は貿易商、小売雑貨商、写真業、貸席業、洗濯業、理髪業、運輸などのサービス業、それに食料品製造業、漁業、牧畜業、建設業に従事していました。1919年(大正8年)には西本願寺(哈府本願寺布教所)の布教師1-2名、全科医2名、歯科医2名、写真屋2-3軒、商店の中には神戸の脇信洋行支店、北海道の一柳洋行(一柳産物株式会社)、西比利亞商事株式会社を主として時計店十数軒などがありました。旅館、料理店もありました。理髪屋、洗濯屋は日本人独占の有様で数十軒ありました。その外在留者の大多数を占めるものは、醜業婦とその営業者です。市内には日本人経営の商店、病院、料理店などを含む日本人町(日本人街)がありました。これらの在留者の行政機関はハバロフスク市日本人居留民会(哈府民会)でした。ハバロフスク日本人居留民会は、在留者中から正副会長及び職業別に分けた5部の内から各2名の部長を選択し、浦塩総領事の許可を得たこれらの人々によって在留者の発展は行われていました。小学校も民会内に設けられ、本願寺の布教師及び教師によって君が代の万歳は歌われていました。市内には哈府日本人倶楽部、ハバロフスク市在留日本臣民御大典奉祝会、ハバロフスク仏教青年団なども活動していました。日本人学校もありました。ハバロフスクに渡航して在留した日本人居留民たちの中には、特に有名になったのは大日本極東会社を設立した竹内一次をはじめ実業家の河野富一、内藤頼吉、吉永徳十、野村健次などです。また西本願寺の僧侶の安倍道瞑や太田覺眠、医師の赤崎増彦や日高三千衛、「からゆきさん」その他の多くの人々が政治、商業、文化の分野だけでなく、日常生活の面ではハバロフスクにさまざまな痕跡をとどめています。

 

 

Link#

 

Reel # 5-1132, Page 0208-0209 (Page 18-19)